2011年07月11日

できない子はかわいそうな子である

効率のよい勉強法はわかっている。ただし、ここでいう勉強法とは受験勉強の勉強である。

教育が受験のための狭い意味の教育と、一般に言う自己実現をするための広い意味での教育と間違えて語られることがある。

特に今日では学習塾における受験教育が、教育そのものと勘違いしている塾講師もいる。
学習塾で一般の教育ができるのなら、学習塾を学校として認可すればよいが、そういうわけにはいかない。

しかし、塾講師の中には自分が教育を行っていると勘違いする者もいて、そこで教育論の混乱が起きる。

混乱の一例として「できないのはかわいそうではなく、やらないからだ」というのは典型的な例だろう。

人間はモノではない。
コンピュータや機械なら、人が間違いなく操作指示をすれば、故障でもない限り期待した通りの働きをする。

ところが、人間はそうはいかない。
感情があるからである。

最近はそういう人の心や感情と言うものに鈍感な人が増えているせいか、ひとに対する指示も機械のようにやればよいと考える人間が増えてきたような気がする。

小学校のころを思い出すと、偉人伝の本がたくさん並べれていた図書館が浮かんでくる。
たとえば野口英世。

野口英世は子どものころ、自分の怪我を医者に治してもらったことに感激して、将来は医者になろうと決心し、勉強して立派な医者になったということが書かれていた。

人間にはやる気にさせる動機が大切だということがわかる。

だから、ある先生だったからやる気になったし、反対に別な先生だったからやる気をなくしたということもあるのだ。

誰が話しても、子どもが同じ反応をするものだったら、塾の講師もいらないことになる。
言葉を録音した機械を用意して、それを聞かせればよいからである。

いかにやる気にさせるかも指導、いや、教育であって「やらないから悪い」とだけしか思考できない指導者は「もしかしたら、子どものやる気をなくしているのは、自分ではないか」と時には考えてみるべきである。

未だ、やる気を感じさせてくれる先生に会ったことのない子どもは、かわいそうな子どもである。
posted by edlwiss at 11:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 効果的学習法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月18日

危機意識

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当たり前のことだが、受験というのは本人の問題である。
ところが、このしごく当たり前のことがそうなっていないことに問題がある。
本人の取り巻き、すなわち両親の問題になっているような場合である。

本人が高校進学を望んでいない場合、親としては世間体が悪いなどと考える場合である。
こういう場合は、往々にして、進学問題は親が先行して上手くいかない場合がある。

親がじっくり本人と話して、本人が納得する場合は問題ないが、どれほど話してもすれ違いになる場合は深刻である。
受験当日まで、親と本人の考えが一致せず、受験に行ってはみたものの、答案用紙にマンガを描いてきたという例もあった。

深刻と言えば、本人が進学したいと思っているのに、本人そのものにやる気が出ない、勉強のポーズばかりというのもある。

受験期の子どもを抱えた家庭では、この時期にあたって、その家族がそれまでどう生きてきたかが問われるのである。
親子関係が良好であったかどうかだ。

ただ、親子関係が良好であったとしても、本人が進学したくないと言い張る場合もある。
学歴だけが人生じゃないみたいなことを言ったりする。

それを親が押し切っても、受験勉強には身が入らないだろう。
それでも、仮に受験がうまく行ったとしても、やはり進学なんかすべきじゃなかった「お父さんが言うもんだから、僕は仕方なく・・・」なんて言い合いになったりする。

では、どうすべきか。
結論、思い切って社会に出してみるべきだと思う。

そして、学歴による差別が想像以上に大きいということを身に染みて感じさせることである。

それが最大の教師だと思う。

実際、私の経験でも、親しくなった人で、ある時
「私、進学なんかいやだって親に言って就職したんですよ・・・でも」
と言い出し、学歴のないことの差別を嫌というほど感じて、1年遅れて再び受験して大学へ行ったと言う。

大学でなく、高校でも同じだと思う。

長い人生の中で、1年や2年そういう体験をしたところでハンディにはならないと思う。
かえって、身に染みて感じたことの方が大きいと思う。

そりゃあ「あんな高校、あんな大学行って何の価値が・・・」というのもわからないではない。
私も実際、行く価値あるのか?と思う学校がある。

ある外人は「日本には学歴という階級がある」と言った。
つまらないことだが、それはちょっとやそっとで何とかなるものではない。

行ってもしょうがない学校でも行かないから、大人になってから「私は高校へ行ってませんから」とか「私は大学へ行ってませんから」とか、折にふれてコンプレックスを聞くことになる。
posted by edlwiss at 10:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月18日

バカの壁

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「バカの壁」は養老孟司氏のベストセラーだが、書の中に出てくる「壁」という言葉にずいぶん影響を受けた。
以来、人間、至る所に壁があるものだと思った。
勉強についても、成績が上がらない者の壁がある

よく「勉強のやり方がわからない」ということを聞くが、勉強のやり方がわかったらそれを実行するという者は優秀な部類だと思う。

話は変わるが、内科へ行ってどこか悪いところを診てもらうとき、医者が体のあちこちを押したとき、猛烈に痛みが走るところがあったら、そこがまさに急所なわけである。

勉強もそういう急所がある。
成績が上がらないでつまづいている急所なのだ。

患者が急所を触られるのを嫌がると同じように、勉強のできない者も急所に触られると激しく嫌がる。

一見勉強をやっているように見えても、いっこうに成績が上がらない者はこのタイプである。

本人が成績などどうでもよいと思っているのなら、それはそれでやりやすいのだが、一番始末の悪いのは進学したいが勉強は嫌だというのが本音だから困る。

学校の先生なり、学習塾の先生なり、家庭教師でも、一応教えるプロなら成績が上がらない原因の患部すなわち急所を発見できなければならない。
精神論しか言えないのは、指導者としてプロではない。
医者のように、患部を発見できなければならない。

病気の場合と同じように、成績不振者はできない原因を発見し、そこを是正しようと指導をすると、激しく抵抗する。

具体的には、このような成績不振者は、親の目から見たらいかにも勉強をしているかのようにカモフラージュしている。
せっせとノートに何かを書き写しているだけだ。

成績を上げるということは、まずできない問題を発見し、その問題が試験に出たら必ずできるように練習しておくことである。

だから、できない問題の克服が試験勉強なのだ。
だから、指導者がやり方を教えてやって、次に誰の助けも借りないでやらせてみることが必要なのである。

ほとんどの者ができないだろうと思われる難問はパスしてもよいだろうが、基礎的な問題でつまづいている場合、絶対それを克服しなければならない。

そこを避けて、きれいにノートを作ることに熱心になっているという状態が何時まで経っても「あれ、勉強しているのに」と思っても成績が上がらない原因だ。

勉強をしているというふりを見破らなければ、プロの指導者とは言えない。

勉強しているふりという壁を突き破ることをしなければならない。
posted by edlwiss at 00:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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