教育が受験のための狭い意味の教育と、一般に言う自己実現をするための広い意味での教育と間違えて語られることがある。
特に今日では学習塾における受験教育が、教育そのものと勘違いしている塾講師もいる。
学習塾で一般の教育ができるのなら、学習塾を学校として認可すればよいが、そういうわけにはいかない。
しかし、塾講師の中には自分が教育を行っていると勘違いする者もいて、そこで教育論の混乱が起きる。
混乱の一例として「できないのはかわいそうではなく、やらないからだ」というのは典型的な例だろう。
人間はモノではない。
コンピュータや機械なら、人が間違いなく操作指示をすれば、故障でもない限り期待した通りの働きをする。
ところが、人間はそうはいかない。
感情があるからである。
最近はそういう人の心や感情と言うものに鈍感な人が増えているせいか、ひとに対する指示も機械のようにやればよいと考える人間が増えてきたような気がする。
小学校のころを思い出すと、偉人伝の本がたくさん並べれていた図書館が浮かんでくる。
たとえば野口英世。
野口英世は子どものころ、自分の怪我を医者に治してもらったことに感激して、将来は医者になろうと決心し、勉強して立派な医者になったということが書かれていた。
人間にはやる気にさせる動機が大切だということがわかる。
だから、ある先生だったからやる気になったし、反対に別な先生だったからやる気をなくしたということもあるのだ。
誰が話しても、子どもが同じ反応をするものだったら、塾の講師もいらないことになる。
言葉を録音した機械を用意して、それを聞かせればよいからである。
いかにやる気にさせるかも指導、いや、教育であって「やらないから悪い」とだけしか思考できない指導者は「もしかしたら、子どものやる気をなくしているのは、自分ではないか」と時には考えてみるべきである。
未だ、やる気を感じさせてくれる先生に会ったことのない子どもは、かわいそうな子どもである。


